リンゴ・スター

以下 〜 wikipedia 〜 より

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リンゴ・スター(Ringo Starr、MBE、1940年7月7日 – )は、イギリスのミュージシャン。本名はリチャード・スターキー(Richard Starkey)。
ビートルズのドラマー。代表曲に「想い出のフォトグラフ」「明日への願い」などがある。
現妻は映画『007 私を愛したスパイ』でボンドガール役を演じた女優のバーバラ・バック。ドラマーのザック・スターキーは長男。なお、孫にあたるザックの娘ターシャ・スターキーも、ベーシストとして活動している。

来歴

誕生からビートルズ解散に至るまで

リンゴ・スターことリチャード・スターキーは1940年7月7日にリヴァプールに生まれた。3歳の時に両親は離婚し母子家庭という環境で育ち「父との思い出と呼ばれるものは何もない」とリンゴは言う。
13歳のとき、母エルシーがハリー・グレイブスと再婚。他のメンバー同様に不良少年だったといわれているが、病弱であったために長い期間に渡って入院生活を送っていたという。 入退院を繰り返し、ほとんど学校にも行くことができなかった。
元々はビートルズのドラマーではなく、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』というバンドのドラマーを務めていて、ビートルズがレコードデビューする直前の1962年8月、当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストと交代する形でグループに加入した。
若い時分から職を転々としていたそうだが、プロのドラマーになってからは安定した収入を得られるようになったそうである。リンゴはビートルズ加入前にビートルズの面々とハンブルク巡業時に顔見知りになったそうだが、ジョージ・ハリスンによると「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」そうである。
芸名の“リンゴ・スター”とは、ハリケーンズ時代にそれぞれが芸名を考えた時につけられたもの。指輪が好きで、両手にいくつも付けていたので、“Rings(リングス)”と呼ばれていたことが元で付けられた。リンゴは「Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けた」と発言している。
他のメンバーより身長が低いため(ジョン、ポール、ジョージは5フィート11インチ、リンゴは5フィート8インチ)、4人が並んだ写真では一番小さく写っている。
ビートルズの歴史上、“A Hard Day’s Night”や“Eight Days A Week”、“Tomorrow Never Knows”など、リンゴの発言をタイトルにしたといわれるものは多々あるが、どれも文法的には正しくない。ジョンはリンゴのこうした言語感覚を讃えて“Ringo-ism(リンゴ語)”と呼び、「リンゴはときどき、ちょっと面白い言い間違いをするんだよ。文法間違いだとかいうようなのじゃない、ジョークっぽいやつ。これが結構いいネタになるのさ」と発言している。

1965年2月にモーリン・コックスと結婚、同年9月13日に長男ザック(後にザ・フーやオアシスのサポート・ドラマーとして活躍)誕生。同年、MBE勲章を授与される。
ビートルズとして成功してからは昔から親しくしている親戚と食事をしても相手がよそよそしくなってしまい、「以前はそんなことなかったのにね…。でも、“以前みたいに接してくれよ”とも言えない。そんなこと言えば、それこそ僕が偉ぶっているみたいに思われてしまうだろ…」と後年語っている。
ビートルズが1970年以前に公式発表した楽曲(一般に213曲とされる)のうち、コンポーザーとしてのスター(=リチャード・スターキー)の氏名がクレジットされているものは5曲(「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」「フライング」「ディグ・イット」「消えた恋」)あり、そのうち、彼が単独で作ったものは2曲(「ドント・パス・ミーバイ」「オクトパス・ガーデン」)である。また、彼がリード・ヴォーカルを担当している曲は十数曲存在する。また、「僕は皆と友達」「僕の曲はアルバムに最低でも1曲入っていればOK」「人気投票では、全然3人に敵わないけど、“2番目に好きなメンバーを選ぶ投票”だったら、きっと1番になれる」などの発言から窺えるようにビートルズのメンバーの中で最も穏やか、かつ人格者であったことでも知られ、彼の存在なしではグループの解散がもっと早まっていたと言われている。
ただし、リンゴは一度非公式にビートルズを脱退している。当事者サイドの見解によると、1968年のアルバム「ザ・ビートルズ」(ホワイト・アルバム)をレコーディング中のこと、自分のスケジュールを常にほかの3人に合わせ、自由な時間もほとんどない状況で、そのうえ、ポール・マッカートニーがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ、挙句の果てにはポールが自分でドラムを叩き「こういう風にやるんだよ!」と言うと 流石に温厚なリンゴもこの状況に激怒し、ビートルズ脱退を決意。「やめてやる!!」と言い放ち、スタジオを後にしたというもの。
また、その騒動の直前にはリンゴはほかのメンバーは仲良しで自分だけが疎外されていると感じ、ジョンの家へ出向き、「君らは仲良しで僕はのけ者だし、プレイも良くないから辞める」と伝えた。するとジョンは「仲が良いのは君ら3人だよ」と答えた。リンゴはその後、ポールの家へ行き同じように伝えると、ポールも「仲が良いのは君らだろ?」と返事をした。ポールは後年、「普段は本人を前にして“君が最高のドラマーだ”なんて言わないだろ?だからリンゴは不安だったんだと思う。『君は最高』と伝える必要があったんだ」と語っている。ポールはリンゴのプレイを褒めちぎり、ジョンは励ましの電報を送り、ジョージはスタジオ中に花を飾ってリンゴを迎えた。

ビートルズ解散後の活動
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970年代前半
ポール・マッカートニーがビートルズ脱退を表明する直前(1970年3月)に、スタンダード・ナンバーを集めた初の単独作品『センチメンタル・ジャーニー』を発売。これを機に、リンゴはソロ・ミュージシャンとしての活動を始動する。同年12月には2枚目のアルバム『カントリー・アルバム』もリリースしている。シングルでは、自作の「ボークー・オブ・ブルース」や「明日への願い」を発表した。「明日への願い(イット・ドント・カム・イージー)」と「バック・オフ・ブーガルー」は、ヒット・チャートを賑わした。ジョージ・ハリスンとの共作曲「想い出のフォトグラフ」や「ユア・シックスティーン」は、全米チャートでナンバーワンを記録した。リンゴは1970年代前半に、ジョン、ポール、ジョージらビートルズの元メンバーと同様、コンスタントにシングル・ヒットを連発した。さらに1974年にプラターズのカバー「オンリー・ユー」、75年に「ノー・ノー・ソング」がヒットした。日本独自のヒットとしては、74年の「オー・マイ・マイ」がある。
シングルだけではなく、アルバムでも彼は成功を収めた。1973年発表の『リンゴ』は全米1位にランクイン。ビートルズ解散以降初めて、4人のメンバーが1枚のレコードの中で名を連ねた(各メンバーが楽曲提供と演奏で参加)作品という話題性も手伝ってのことではあっただろうが、いずれにしろ、ここに至って、彼はソロ・キャリアの頂点に達する。ジョン・レノンやエルトン・ジョン、ニルソンなど、豪華な作家陣が楽曲を提供し、レコーディングにも参加した次作の『グッドナイト・ウィーン』も前作同様に大ヒット。ジョージが企画して行われた1971年の『バングラデシュ難民救済コンサート』も含め、1970年代前半のリンゴはさまざまな分野で大活躍した。

1970年代後半~1980年代
しかし、1976年に古巣EMI/アップルを離れ、アトランティック・レコードに移籍した頃から、好調だったソロ活動に翳りが見え始める。当時リンゴは、自らのレーベル、リング・オー・レコードを設立。作品のプロデューサーにアリフ・マーディン、作曲家にヴィンセント・ポンシア・ジュニアなどを迎え、極めてファンキーなサウンド作りに徹していた。しかし、そういった路線を、より具体的に打ち出した1977年のアルバム『ウイングズ~リンゴIV』は、ビルボードのアルバムチャートで100位圏外という結果に終わってしまう。この作品の売上不振を原因に、彼はアトランティックから契約を打ち切られている。プライベートでも腸の病気を患って、一時危篤状態に陥ったり、ロサンゼルスにある自宅が火事で全焼したり、と、1970年代後半はリンゴにとって多難な時期となった。そんな中、彼は自らが主演を務める映画『おかしなおかしな石器人』の中で共演した女優のバーバラ・バックと恋に落ち、1981年に再婚(前妻のモーリーン・スターキーとは1976年に離婚している)。だが、その前年・1980年12月、ニューヨークで、ジョン・レノンが精神疾患者に殺害されるという衝撃的な事件も起こった。この事件が起こった直後、夫妻は急遽ニューヨークのオノ・ヨーコのもとに向かい、彼の死を悼んだという。
本業では、1980年代に2枚のオリジナルアルバムをリリースするが、シングル・カットされて全米トップ40ヒットとなった「ラック・マイ・ブレイン」以外は全て失敗に終わっている。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎えて制作された1983年発表の『オールド・ウェイブ』に至っては、本国やアメリカではリリースさえされなかった。1980年代の彼は私生活でもとても退廃的な体たらくだったようで、ポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンのアルバムや、チャリティ・コンサートなどでドラムを叩く活動が中心だった。1980年代後半はアルコール依存症にも悩まされていた。

近年

そんな彼も、1989年にアルコール依存症患者更生施設での治療を経てカムバック。ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリート・バンドや、イーグルスの元メンバーなどを集めた、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドというスーパーバンドを結成し、ビートルズ解散後初の本格的なワールド・ツアーに出る。その年の秋には日本公演も実現した。ビートルズのメンバーがライブを目的として日本に来たのは実に23年ぶりのことであった(ちなみに翌年にはマッカートニー、そのさらに次の年にはハリスンも日本公演を行っている。元ビートルズが3年連続で来日したことは、日本のロック・ファンを大いに沸き立たせた)。

1992年に久々のアルバム『タイム・テイクス・タイム』を発表してからは、その活動はますます精力的なものとなり、1995年にはオールスター・バンドを従えて再び来日した。この際の武道館公演は、『ヴォリューム・ワン』というタイトルのCDとなって、アメリカの「ブロックバスター」から通販限定で発売されている。翌1996年には、日本の宝酒造「すりおろしりんご」のCMに出演し、大きな話題を呼んだ。彼はコマーシャルに出演した当時唯一のビートルズのメンバーであり(2007年にはポールがiPodのテレビCM、2012年にJBLのテレビCMに出演)、このアップル・ジュース以前にも、アメリカのウォッカや、ピザのCMに出演している。

1998年には、キャロル・キングやエアロスミスなどを手がけたことで知られるマーク・ハドソンを、作曲パートナーと共同プロデューサーに迎えて制作されたオリジナル・アルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』をリリース。マッカートニー、ハリスン、ブライアン・ウィルソン、アラニス・モリセットなど、相変わらずゴージャスなゲスト陣とともにレコーディングされたこのアルバムは、彼にとって実に22年ぶりとなる全米アルバムチャートのトップ100入りを果たした。その後はハドソンをパートナーとして、精力的に創作活動に臨み、数枚のアルバムを発表している。数年間隔でオール・スター・バンドのツアーもこなし、マイペースながら着実な活動を続けている。

2008年には、メンバー中唯一サインに応じる元ビートルとしての生活に嫌気が差したとし、「10月20日以降はどんなものであってもサインしない、ファンレターも読む暇がないのでゴミ箱行きになるから送らないでほしい」と声明を出した。

2011年には、ギターを弾いているのがよく見られる。「サマーツアー・イン・ヨーロッパ」のムービーでは青いフォークギターを弾いている。その他にリンゴのホームページでエレキギターやピアノを弾いているところを見ることができる。

映画俳優として

彼は、多くの映画に性格俳優として出演するなど、音楽以外の面でも才能を発揮している。ドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』を除くすべてのビートルズの映画作品(『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ』、テレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』、アニメ『イエロー・サブマリン』)において、リンゴは主役またはストーリーの中心的な存在となっている。ビートルズのフロントマンであるレノンやマッカートニーも、これらの映画作品の中ではリンゴを引き立てる脇役に徹している。他のメンバーと違って、コンポーザーとしての才能に長けていなかったこともあって、ビートルズ後期になると、彼はより映画の仕事に重点を置くようになり、ピーター・セラーズとの共演作『マジック・クリスチャン』や、『キャンディ』などに出演した。
映画『おかしなおかしな石器人』での共演をきっかけに結婚した現在の妻バーバラ・バックも、かつては映画『007 私を愛したスパイ』などに出演していた女優である。1980年代には、ビートルズの他の二人の元メンバーとそれぞれスクリーン上で共演した。1982年には妻と共に、ゴドレイ&クレームが監督を務めた短編映画『ザ・クーラー』に出演し、映画を制作したマッカートニー夫妻と共演した。マッカートニーによる1984年公開の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』でも、彼はサントラへの参加のみならず、俳優として演技していた。ハリスンとは1985年公開の映画『レゲエdeゲリラ』で競演。エリック・クラプトンをはじめとする豪華なミュージシャンたちと、そろって演奏するシーンに出演していた。本業の音楽に再び精を出すようになった1980年代後半以降、彼が映画に出演する機会は減りつつある。

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