ポール・マッカートニー

以下 〜 wikipedia 〜 より

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ジェームズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, MBE, Hon RAM, FRCM、1942年6月18日 – )は、
イギリスのミュージシャン。シンガーソングライターであり、世界屈指のマルチプレイヤーでもある。
ファーストネームはジェームズだが、父親も同じ名前のためミドルネーム(ポール)を通常の名前として用いている。
1997年にSirの称号を贈られた。
1960年代、ザ・ビートルズのメンバーとして、ジョン・レノンとともに数多くの楽曲を作詞・作曲した(レノン=マッカートニーを参照)。
同バンド解散後は、ソロ歌手およびウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)などのメンバーとして活躍。2012年現在、現役である。

『ギネス・ワールド・レコーズ』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている。左利き。身長177.5cm。 

人物

世界で最も有名なポピュラーミュージシャン、シンガーソングライターの一人である。親しみやすく美しいメロディの作風に特色があり、ビートルズ時代においては「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表曲と言われる楽曲の多くを作詞作曲した。解散後の1970年代には、ウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上を送り込んでいる。2000年以降も作品をリリースし続けており、近年ではクラシック音楽も手がけている。2012年にはジャズCDを発表した。
ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでの演奏では主にベースを担当している。ベーシストとしての評価は非常に高く、彼の弾くメロディアスなベースラインは、後のロックバンドのベーシストに多大な影響を与えたと言われる。他にもアコースティック・ギターやエレクトリックギター、ピアノ、シンセサイザー、キーボード、ドラムス、また管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ソロアルバム『マッカートニー』や『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』に至ってはすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)出来る世界屈指の「バンド編成におけるパート(楽器)をほぼ全て巧みに扱えるマルチプレーヤー」として絶大な音楽能力を誇る。 「ビートルズのベース」というよりも「ジャズもクラシックも堪能でかつバンドにおいて全てのパート(楽器)担当になれて作詞作曲も熟す超越した音楽家」と認識している人の方が多い(本国イギリス論)。
上記にある「マルチプレーヤー」と同じく声質においても「マルチボイス」であり七色の声を発するボーカリストとしての才能も高く、ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、楽器を演奏しながらリトル・リチャードなどの難易度の高いロック・ナンバーを難なく歌いこなしている。一方でバラードにおける甘い歌声や、「レディ・マドンナ」あたりから披露した、エルヴィス・プレスリーを思わせる唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。またその声を生かしたコーラスの一人多重録音も盛んに行っている。

来歴

1942年 – リヴァプールに生まれる。父はセールスマンでアマチュア・ジャズ・ミュージシャン。
1956年 – 母・メアリーが乳癌のため死去。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」(のちに『公式海賊盤』に収録)を作曲。
1957年7月 – ザ・ビートルズの前身バンド・クオリーメンに加入。
1962年 – ザ・ビートルズとしてデビュー
1965年 – MBE勲章・受勲
1969年 – 写真家のリンダ・イーストマンと結婚
1970年4月10日 – ビートルズ脱退を表明。4月17日、ファースト・ソロアルバム発売。
1971年 – ウイングス結成
1972年 – ビートルズ末期に実現できなかった、予告なしに行う抜き打ちライヴを敢行(イギリス国内ツアー)
1973年 – ヨーロッパツアー
1975年 – 初のワールドツアーを行い、大成功を収める
1979年
イギリスツアー
カンボジア難民救済コンサート主催
1980年
成田空港にて大麻・不法所持で現行犯逮捕。ウイングスの日本公演が中止に
ジョン・レノンが射殺される
1981年 – ウイングス解散
1989年-90年 – 13年ぶりのワールドツアーに出る。ソロとして初の日本公演
1991年 – MTV「Unplugged」に出演。後に『公式海賊盤』に収録
1993年 – ニュー・ワールドツアー。2度目のソロ日本公演
1995年
アンソロジープロジェクトの一環として、ビートルズの新曲を発表
ラジオ番組「ウーブ・ジューブ」で長期出演。自分の貴重音源を集め放送(日本ではニッポン放送などで同年12月25日から29日まで5回にまとめられたものが放送された)
1997年 – ナイトに叙勲される
1998年 – 妻・リンダ・マッカートニー、乳癌で死去
1999年 – ロックの殿堂を受賞。
2001年 – Concert For New York Cityに出演
2002年 – へザー・ミルズと再婚。3度目のソロ日本公演
2002-03年 – ワールドツアー
2005年
「LIVE 8」に出演
ワールドツアー
2006年 – へザー・ミルズとの離婚調停開始。2008年に離婚成立。
(注:1957年 – 1959年の間は、クオリーメンの項、1960年 – 1970年の間は、ビートルズの項、1971年 – 1981年の間は、ウイングスの項もそれぞれ参照のこと)
2010年 – ガーシュウィン賞を受賞。ケネディ・センター名誉賞を受賞。
2011年9月 – アメリカ人の実業家ナンシー・シェベルとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。
2012年 -フランス最高勲章レジオンドヌール勲章オフィシエを受賞。

ソロ・キャリア

ビートルズ解散直後

1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、評論家からは作品の極めて簡素で素朴な内容を批判された。
『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻・リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。

1980年代
コンサート・ツアーの一環で行なう日本公演のためウイングスを随えて1980年1月16日、成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。
当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「カミング・アップ」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。しかし1980年12月8日(23時頃)、そのレノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。
レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソン、エリック・スチュワート、オービー・トライス、エルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。マイケル・ジャクソンとは彼の世界的な大ヒットアルバムの『スリラー』で「ガール・イズ・マイン」をデュエットし、またお返しと言う事でマイケルがポールのアルバムで「セイ・セイ・セイ」をデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。また、1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、サントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1980年代中盤にはヒュー・パジャムやフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。
ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、1980年代中盤は現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年にソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。1989年から翌年にかけて行われ、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏された。ツアーの一環で、1990年3月には24年ぶりの来日公演も実現している。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

1990年代

1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行われている。

1994年からは、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

1995年からはリンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。

近年

ポール・マッカートニー(2004年)

2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。

2002年にはアメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2004年にはロシアのモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。

2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。

2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。 このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。12月、iTunes Storeでセレブリティ・プレイリストを発表し、ジーン・ヴィンセント、ビーチ・ボーイズ、レディオヘッド、セックス・ピストルズ、レイ・チャールズ、フレッド・アステア、キラーズ、ジョン・レノン(イマジン)、リトル・リチャード、エルビス・プレスリーを選んだ。

2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手ヒューレット・パッカード社(Hewlett-Packard、HP)は、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。 HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッド(McCartney Productions)と共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。 計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。

2012年7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱。

日本公演

ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして3度訪日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の日本公演を行うはずだった。しかし訪日直前になって法務省によりマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴でビザが取り消され、公演は中止となる。それから5年後の1980年1月16日にウイングスとして訪日したものの、今度は成田空港にて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され、ツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与え、彼自身は、出発前から書いていた曲に、「フローズン・ジャップ」という日本人を侮蔑するタイトルを付けた(日本では「フローズン・ジャパニーズ」に改題)。
ポール自身は上記の曲を、「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ」 とコメントしている。
この事件は本国イギリスでも大きく報道され1月17日付のタイムズ紙では1面に手錠姿で警察へ連行されるポールの写真が大きく掲載された。

1980年の事件後にマッカートニーは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、彼の世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなった。日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来24年ぶりに日本公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行った。

1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び訪日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を行った。

2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。

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