ジョージ・ハリスン

ジョージ・ハリスン 写真

以下 〜 wikipedia 〜 より

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ジョージ・ハリスン (George Harrison, MBE、1943年2月25日[2] – 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン。ビートルズの元メンバー。

概要

1960年代にビートルズのリードギタリストとして活動し、解散後はソロとして活動した。ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」や「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」などをヒットさせたほか、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)は、ロック・アルバムの金字塔として高く評価されている。
スライドギターの名手としても知られる。
2001年に肺癌と脳腫瘍のため死去。1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に個人としてロックの殿堂入りしている。現在サーの称号を故人として初めて授与するかどうか議論されている。

生い立ち

1943年にリヴァプール郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番街でハロルド・ハリスンとルイーズ・フレンチ(アイルランド系)との間の三男(4人兄弟の末っ子)として誕生し、時の国王ジョージ6世に因んで「ジョージ」と名づけられた。
父・ハロルドはウェールズ系で、バス運転手だった。母は敬虔なカトリック教徒だった。
ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学した。当時の同級生は彼のことを「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評していた。
ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフルバンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなく洗濯板だった。これは、一緒にバンドを組もうとしていた、2番目の兄ピーターがすでにギターを持っていたため。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まっていき、とうとう同じ高校の生徒から中古のギターを譲り受ける。
そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージはある日、母・ルイーズにお金を援助してもらい、初めてのエレクトリック・ギターを手にする。エレキギターを手にしたジョージは念願のスキッフル・グループを結成。バンド名を「Rebels」(レベルズ・反逆者たちの意)とした。当時のイギリスには同名のバンドは多数存在していた。
「レベルズ」が初めてライヴのステージに立った日、ブッキングされていた他のバンドが不運にもみんなキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返しの連発で数十分間引きのばしたりして乗り切った、というエピソードもある。
その後、1950年代の中頃に、ポール・マッカートニーと出会う。ポールの紹介で、ジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に参加。バンド加入のきっかけとなったのは、空のバス2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの”Raunchy”」というギターインストゥルメンタルを完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている(彼の家をバンドに貸したからという説もある)。
ジョージ自身は、ポールに紹介される以前からジョン・レノンの存在は知っていた。なぜなら、以前ジョージがアルバイトをしていたクウォーク精肉店の得意先の1つがジョンの家だったからである。

ビートルズの中で

ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。
ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。
活動初期から中期においては、ソングライターとしては天才メロディーメーカー、レノン=マッカートニーの陰に隠れ目立たない存在であったが、中期に至って自作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバム「ラバー・ソウル」に収録され、「タックスマン」がアルバム「リボルバー」の1曲目を飾るなど頭角を現し、後期になると「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」等の曲を完成させる。しかし、当時ビートルズ内でのジョージの評価は決して高くなく、1作のアルバムにつき2曲しか発表できない、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどで不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化し、彼はメンバーの中でも早くからソロ活動を志向するようになり、バンド解散の原因の一つともなった。ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」の中で、ギターソロをめぐってポールと口論するシーンがカメラに収められている。一連のセッションについて、「最悪だったよ。地獄にいるみたいだった。世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。
一方で、ビートルズの中でもっとも外部ミュージシャンとの交流が盛んだったのも彼であった。これは、彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、尊大なところがなく、誠実で人懐っこい性格だったといわれる。 自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトンを、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンをゲット・バック・セッションに参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。他にもボブ・ディラン、ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドとの交流はよく知られるが、無名時代にロリー・ストーム、リンゴと最初に仲良くなったのも、ビリー・プレストンと仲良くなったのも彼であった。その初期に於いて、デッカ・レコードにローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。
欧米では、「静かなるビートル(Quiet Beatle)」の異名を取っていた。 このことについてジョージ本人は「僕は『静かなるビートル』なんて呼ばれていたけど、心根は狂っているのさ。なんていったってビートルズの一員として務まったんだからね。」と語っている。
大英帝国勲章に関して後年「僕たちは国のために尽くしてたくさん金を儲けてやったのに、国がくれたものは戦争で人を殺した連中と同じ、野暮ったいヒモの付いたチンケなメダルだけだった」と笑いながら語った。

解散後

1970年代前半
ビートルズ解散直後、最も活発に音楽活動を展開したのはハリスンであった。その活動の充実ぶりに、多くの評論家から「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評された。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにも関わらず、全米/全英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを収め、シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となっている。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に放出した作品が多く含まれ、伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まって、その完成度の高さから、今もなお画期的なロック・アルバムとして評価されている。
翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイヴェントは大成功を収め、20世紀最大のロック・イヴェントとも称された。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。

1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース」を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースする(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされる(最終的に敗訴する)など、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃様々な不運によって精彩を欠いていた。

1970年代後半

1974年にはアルバム「ダーク・ホース」(全米4位)を発表。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に彼は肝炎を患って入院してしまう。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザーズと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることとなる。ここから1976年に「33 1/3」、1979年に「慈愛の輝き」という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11、14位というまずまずのセールスを収めた。
私生活では、親友であるエリック・クラプトンと交際するようになった妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系のアメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(勿論、後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(父同様にミュージシャン)をもうけている。

1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事で大きな成功を収めることとなる。

1980年代前半

副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく~母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。

翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはアーティストとしての活動から半引退状態となる。プライヴェートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は「最も音楽から離れた年」であったと後年本人は語っている。

1980年代後半
本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズフォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえる酷い代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ皇太子が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズの元メンバーが出演したことが話題となった。
リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカをはじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされた「セット・オン・ユー」は1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートでも5位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは1973年以来であり[5]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画「リーサル・ウェポン2/炎の約束」のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれている。

1990年代~晩年

1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンのジョイント・ツアーが行われる。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの来日公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。

1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライヴ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年春には、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行うが、これが彼にとっての生前最後のライヴ・パフォーマンスとなった。

1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われる。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。

1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることとなる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。

1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、そんな矢先の1999年の晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまう。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。
この間に、かつてのビートルズのメンバーのピート・ベストと再会している。ジョージ曰く「僕はビートルズ時代にピートになにもしてあげられなかった。せめて、再び彼と会ってピートに当時のことを謝りたかったんだ」と長年の間ずっと、ピートのことを気懸かりに思っていたという。
しかし、今度は肺癌であったことが判明、さらに脳腫瘍も併発していたことが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱。2001年11月には、各国の大衆紙で彼が危篤状態であることが報じられた。そしてそれから間もない同年の11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺癌のため彼は滞在先のロサンゼルスで死去(58歳没)。なおビートルズ・ファンからの追悼の巡礼を逃れるためにオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載したため死亡した場所は明らかになっていない。

死後
ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された(プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、ジェフ・リンの3人)。2003年度グラミー賞には遺作から“Any Road”と“Marwa Blues”の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。また、最優秀ポップ・アルバムに『ブレインウォッシュド』もノミネート、計3部門にノミネートされた。
遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされている。

2004年3月15日には、ソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。2006年9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。

2009年4月14日、ハリウッドの殿堂入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。また、同年5月8日には、アビイ・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23~24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィスによって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された(日本盤は7月8日発売)。
没後10周年となる2011年、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開された。
現在マッカートニーに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっている。

ジョージとモータースポーツ

少年時代からモータースポーツのファンで、ビートルズ解散後は観戦にもより一層熱中した。1979年に行われたインタヴューでは、好きなドライヴァーにグラハム・ヒルとジャッキー・スチュワート、ヨッヘン・マス、ジョディー・シェクターを挙げ、実際にスチュワート、ニキ・ラウダなどといったレーサーとの親交を深め、自身もレースにドライヴァーとして1度参戦している。モータースポーツ好きを裏付けるように、彼は1979年にF1で闘うドライヴァー達を歌にした「Faster」(シングル・カットも、全英、全米ともチャート・インせず)を発表している。「Faster」のミュージック・ヴィデオではギターを弾いて歌うジョージを乗せたタクシーの運転手がジャッキー・スチュワートという面白いコラボレーションが見られる。「Faster」の印税は、癌で亡くなったF1ドライヴァー、グンナー・ニルソンの癌基金に寄付されたという。
後年はグラハムの息子、デーモン・ヒルと親交があり、デーモンがF3参戦時の際、参戦資金が不足していたためジョージに支援依頼の手紙を郵送。当時のデーモンは、「無作法は重々承知していたが、背に腹を代えられぬ。そんな心境だった」という状態だったが、心を動かされたジョージはこの申し入れを快諾。数年後、F1ワールドチャンピオンになったデーモンは返済を申し出るが、これを笑って辞退したというエピソードがある[7]。なお、マーティン・スコセッシ監督が務めたジョージ・ハリスンの58年の生涯を振り返るドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』ブルーレイ&DVD(2011年12月23日発売)の映像特典の中にデーモンのインタヴューが収録されている。

また、上記の79年に行われたインタヴューで「息子・ダーニがレーシング・ドライヴァーになりたかったらどうする?」という質問に対し、「できればなって欲しくないけど……。反対はできないだろうな。」と答えている。

ロードレース世界選手権WGP500ccクラス(現在のMotoGP)チャンピオンのバリー・シーンとも親交を持っていたことが知られている。バリー・シーンが居住するオーストラリアでWGP(あるいはMotoGP)が開催される際にはリポートを務めるバリーとともにテレビに映る姿が目撃されていた。なお、バリーが再起不能と言われた重傷を負った際に曲を書き下ろして提供したこともあるという。


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