ジョン・レノン

ジョン・レノン John Lennon 写真
ジョン・レノン (John Lennon)
1940.10.9 〜 1980.12.8


John Lennon History その1へ

以下 〜 wikipedia 〜 より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン (John Winston Ono Lennon, MBE、1940年10月9日 – 1980年12月8日) は、
イギリスのミュージシャン。ロックバンド・ビートルズのメンバーで、ボーカル・ギターを主に担当した。身長178cm。
出生名はジョン・ウィンストン・レノン (John Winston Lennon) であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。

概説

1960年代に世界的人気を得たビートルズのリーダー。ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年12月8日23時頃 (米国東部時間) にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性により射殺された。
ヒット曲

『ギネス・ワールド・レコード』では、最も成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲) 、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲) 」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、リードボーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「愛こそはすべて」「アクロス・ザ・ユニバース」「カム・トゥゲザー」、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」などを発表した。

生涯

生い立ち

幼年期

1940年10月9日 (18時30分) 、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父親のアルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、母親の姉・メアリー (ミミ伯母) 夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリスの首相のウィンストン•チャーチルから。

1946年、父親のアルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母親のジュリアがジョンを連れ戻すが、母親と暮らすことはできず、再び、ミミ夫婦のもとで育った。父親も行方不明になった。

ビートルズデビューまで

少年時代

実の両親と共に育つことがなかったことから、少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こすことも少なくなかったという。1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。

1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。
1957年、処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲 (この曲は1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された) 。当時からギター・ボーカルを担当していたが、前述の通り実際に教わったのはバンジョーのコードだったため弦を4本しか使っていなかったという。
ポールとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人 (アイヴァン・ボーン) の紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になった。
ジョージ・ハリスンとの出会い

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンのクオリーメンへの加入を認めた。

母の死

1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、またすでに (1956年 14歳の時) 母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。

1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。
ハンブルク
この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目のリック325を購入した。

1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」をレコーディングした。

ブライアン・エプスタインとの出会い

1961年12月ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるも不合格となった。 6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマー、リンゴ・スターが加入した。 10月5日「ザ・ビートルズ」としてレコードデビューを果たした。
最初の結婚

1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。
シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノンは1963年4月8日に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。

キリスト発言

1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。
「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」
この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト (キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部) の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。
「僕がもし、 “テレビがイエスより人気がある” と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War (日本では1993年にビデオで初めて発表。邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』) に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。
二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston (イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた) からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。
彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがベトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。「バギズム」や「ドングリ・イベント」 (ともに69年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」 (69年) や ‘War Is Over (If You Want it)’ (71年) の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に二人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』 (1970年) 、『フライ』 (1971年) 、『無限大の宇宙』 (1972年) 、『空間の感触』 (1973年) が発表され、それぞれにジョンが参加した。
二人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』 (1972年) 、『ダブル・ファンタジー』 (1980年) 、『ミルク・アンド・ハニー』 (1984年) が発表された。

ソロ・キャリア
ジョンはビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始し、翌69年から1976年に活動を休止するまでプラスティック・オノ・バンド (Plastic Ono Band) の名で作品を発表した。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズのデビュー以前からの知り合いだったクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。

1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。

1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月にメンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した。

1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散したのち、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年間のち、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター (ドラム) 、クラウス・フォアマン (ベース) 、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した (米6位、英8位) 。「マザー」がシングルとして発表された。

1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した (発表は10月) 。ここではジョージ・ハリスン (ギター) 、アラン・ホワイト (ドラム) 、ジム・ケルトナー (ドラム) 、キング・カーティス (サックス) らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位 (オリコン総合チャート) と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここで多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動に積極参加した。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑をうけた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート (ともに1971年12月) などが代表的なものである。ジョンは公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と左翼的なフレーズを立ててアメリカ国内でデモ行進をした。この時期のFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[4]。この様な理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続をとり続けた。

1972年2月にTV番組「マイクダグラス・ショー」に出演し、チャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は (ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた) 、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。

1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。またリンゴのソロアルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。

1974年3月からはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』 (Walls And Bridges) を発表した。このアルバムはローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。またこの中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」 (全米1位) 、「夢の夢」 (同9位) がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には『失われた週末』を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この曲ではジョンもはプロデュースをした。長く未発表で、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした (全米6位) 。

1975年2月、カバー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ボウイの『ヤング・アメリカン』 (3月発表) でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスに参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによるとスタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。同年10月にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ~ジョン・レノンの軌跡』を発表した。

1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。

1980年代
晩年は政治的・思想的に保守化しラジカリズムを放棄、ロナルド・レーガンの支持者だったと、最晩年2年間のアシスタントであるフレッド・シーマンが記録映画「ビートルズ・ストーリーズ」の中で証言、反響を読んだ。

1980年6月にバミューダ諸島で録音を開始した。8月にスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ショーンが偶然友達の家で見た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。 (クイーンの「愛という名の欲望」、ポール・マッカートニーのカミング・アップに触発されたという説もある)

1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』 (米1位・英1位・日1位) を発表した。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」 (米1位・英1位) 、「ウーマン」 (米2位・英1位) 、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」 (米10位) などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。
没後、『ダブル・ファンタジー』は1981年のグラミー賞年間優秀アルバム賞を獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
レノンの音楽性の発展

ビートルズ時代

1960年代、ビートルズはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルの発展に貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。ジョンのこうした作風とポールのポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしてきた。
ビートルズにおけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲だが、「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」などで聴かれるややブルージーでマイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに陰をつけ曲に哀愁感をもたらしたとジョンは述べた。
後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニバース」「ビコーズ」のような洗練された美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの曲を発表した。
ソロ時代
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘビーなロックを発表している。そして、「インスタント・カーマ」や「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のボーカルが特徴の軽快なロックも創作された。
また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しいメロディーの曲がある一方でビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、同時期 (1967~68年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。
また、レゲエやカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」での有名なレノンの冒頭のピアノ・プレイが先鞭をつけたが、さらに「マインド・ゲームス」における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[7]。 ブラック・コンテンポラリー調の曲が多い『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式を踏襲した複雑な楽曲構成に挑んだ。
こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」である。この中で半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオのフレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニックが駆使された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。

編曲・プロデュース

『レット・イット・ビー』でのアレンジを高く評価したレノンはビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」に続いて、ソロ前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターは、ストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁 (Wall Of Sound) 」で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた。
ソロ後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』、復帰後の『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュース (『ロックンロール』では一部をフィルスペクターが担当、『ダブル・ファンタジー』はジャック・ダグラス、ヨーコが共同プロデュース) により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった。 これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言 (デビッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど) がある。 マインド・ゲームスに参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し、アダルト・オリエンテッド・ロックの先駆となった。 ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ、分散和音的なアプローチも取り入れている。『心の壁、愛の橋』ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。
また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える[。

ポール・マッカートニーとの関係

ビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあう深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、1970年代も中頃になると、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行なった際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行ない、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。
またレノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」と述べた。

次代のミュージシャンへの影響

20世紀で最も影響力のあるミュージシャンとして知られ、ジョンが影響を与えたミュージシャンとして同僚のポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ニルソンに加えローリングストーン誌では、U2のボノ、ニール・ヤング、オアシスのリアム・ギャラガーを挙げている。同誌でジャクソン・ブラウンは「彼はつねに真実を述べた」と賛辞を送っている。映画「イマジン」ではジャズのマイルス・デイヴィスとの交流も知られる。本邦で編集されたNowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。1995年発売のジョン・レノンのトリビュートアルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」と評し「複雑リズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と伝えた。ボーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。

ローマ教皇庁による赦免

ジョンの死後四半世紀を経た2008年11月、ローマ教皇庁 (ローマ法王庁) はジョンの発言を赦す声明を教皇庁の日刊紙オッセルバトーレ・ロマーノ紙上で発表した。教皇庁は、有名になった若者が豪語したにすぎない、予想外の成功による自慢話だという見解を示し事件を収束させた。

日本との関わり

ビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している[19]。 また、この訪日時にジョンは、ヨーコと共に歌舞伎隅田川を観劇し感涙したという。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している。
1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎年訪日し、東京や京都、小野家の別荘がある軽井沢で夏を過ごした (合計約9ヶ月) 。軽井沢では万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている。
日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時に共にインタビューを受けた加山雄三 (初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた) 、ニューヨークのジョン夫妻の下で過ごした時期のある横尾忠則、訪日時に食事を共にした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック (当時) の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタビューを受けている[22]。 写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』、『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。
日本での売り上げで、シングルでは「マザー」と「イマジン」、「スターティングオーバー」、「ラブ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」の他もオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位 (単日では1位) 、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。また2001年から毎年日本武道館で開催されている『Dream power ジョン・レノン スーパー・ライブ』ではヨーコも参加し、本邦ミュージシャンでは奥田民生、LOVE PSYCHEDELICO 、BONNIE PINK 、吉井和哉、ゆず、坂本龍一、山崎まさよし、大貫妙子など、毎年10組前後のミュージシャンが参加している。

ジョン・レノンの殺害

1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった (10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる) 。

レノンの自宅のあったダコタ・ハウス

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[23]。
22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I’m shot!) 」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズベルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で23時過ぎに死亡した。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後犯人は現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。
病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
レノンの殺害に関して、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行として結論づけられている。犯人は「レノンの熱狂的なファン」でありストーカー的な犯行だったとも言われるが、実際には犯人は特に熱狂的なファンではなかったらしく、現在ではストーカー説は疑問視されている。犯人のマーク・チャップマンは、20年から終身刑に処せられ、2013年までに7度の保釈申請を却下され、未だ服役中である。

ダコタ・ハウスからすぐのセントラルパークにあるレノンを偲ぶ「イマジンの碑」

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」 (ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加) をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。
日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*